何でこんなに苦しいのだろうといつも感じていた

中谷英貴です。

 特に仕事をしていて、よく苛まれた感覚ですが、
 無性に苦しくて仕方がない時期がありました。

 もともと、出来が良いわけではないことは
 重々承知していたはずだけど、
 何とか結果を出しても、
 レポートを作り上げても、
 果ては昇進しても、
 苦しくて仕方がなかった。
 もちろん、
 何かをすると叱られることがデフォルトで、
 プレゼンの説明も上司への報告も、
 褒められたものではなくて、
 新しく学ぶ必要がある知識のキャッチアップも遅く、
 そんな自分の状況が露呈するから
 苦しいのかもしれないとも考えました。

 フランスの社会学者デュルケムは、
 経済危機だけでなく急成長などの急激な変化があった時に陥る
 攪乱状態が起こり、その際の葛藤をアノミーと呼びましたが、
 どうもそういうものとも違うみたい。

 自問自答の末、朧ながら感じられたのは
 仕事の出来・不出来ではなく、
 自分自身との接し方を蔑ろにしている
 ということでした。

 仕事の選択の仕方は、
 自分が惹かれたり、
 好きだったり、
 やるべきと感じたことではなく、
 給与と安定とネームバリューが基準になっていました。
 それで高いパフォーマンスを発揮していれば
 まだいいのでしょうが、
 残念ながら現実はそれとは程遠いアップアップ状態。
 これでは会社も困りますよね。

 働き方も、
 人目を気にしすぎて、
 目先のお金にこだわりすぎて、
 ストレスばかりため込みすぎて、
 といった残念な状態でした。

 私たちが仕事や働き方の選択において
 本来もっとも優先すべきことは、
 自分の欲求に従って
 自分がやりがいを感じることを率先して選択し、
 その世界で自分を満たし、
 その結果を必要とする多くの人も満たすこと
 であるはず。 

 仕事に限らず、何かが苦しいと感じるとき
 そして身動きが取れなくなるほど、
 心と体が疲弊しているとき、
 そういった心の欲求を明らかに蔑ろにしている
 のではないでしょうか。 

 以前書きましたが、仕事で苦しんでいるとき、
 父はよく母にこぼしていたことがあったそうです。
 父もまた私がそうであるように
 職場の人間関係に苦しんていたといいます。
 他の選択肢として、車が好きだった父は
 タクシードライバーになろうとしていたみたいですが、
 結局踏ん切ることができなかった。
 あの時父がサラリーマンを辞めていたら、
 と考えるときがあります。
 決して甘くはない交通業界で、
 やはり同じように苦しんだのかもしれませんし、
 どうなったかはわかりません。
 ただ、もしかしたら
 自分で新しい道を選択したことで、
 原家族が離散したり、
 自ら世を去ることは、
 なかった可能性もある。
 全て“たら・れば”の話です。
 ただ、自分が望んでない場所にいるよりも
 望む方向へ動いたという事実は
 悔いにはならないはず。

 いずれにしても切に感じるのは、
 出来ない自分を肯定し、
 出来ないなら出来ないことがあってもいいことを
 自分に許すこと、
 そして、
 自分が求める働き方や
 何をして生きていきたいのかを
 自分自身と相談して明確にし、
 その実現に向けて小さくても歩き出すこと、
 この2つの大切さです。

 耐えがたいほど苦しい状況が続いているとき、
 そこに欠けているのもまた、
 この2つのことではないでしょうか。
 自分を振り返っても、
 そこに行きつきます。

 お読みいただきありがとうございました。