自分を受容する練習

中谷英貴です。

 どれだけ歯を食いしばって頑張っても
 ものごとがよくならないことってありませんか。
 多くは人の関係か、仕事のことか
 そのどちらかであると思います。

 楽しいから行動するのではなく、
 やりがいがあるから行動するのでもなく、
 使命感や天命を感じるからでもなく、
 自分が至らなくて焦っていたり、
 他者の不備に憤りを覚えていたり、
 できないことで叱責や罵声が怖いから、
 頑張ってしまうということになると、
 やがて自分か周囲の人を
 “攻撃”するようになります。
 なぜなら、そんな行動、働き方のまま
 心が保つはずもないから。
 周囲とは多くの場合は
 家族の弱い部分でしょう。

 父と母や私たちの間には
 そんな悲しい出来事に含まれることが
 何度も起こっていて、
 実は我が家に限らず、
 当時(今も)の少なくない家族の中で
 繰り広げられていたのがわかったのは、
 カウンセリングのことを学んだ後でした。

 とは言っても、です。
 社会と接して、
 それなりの待遇とサラリーを得ている人は
 どうやったところで、
 頑張らざるを得ない境遇にあることが
 少なくないのも事実でしょう。

 そこで我が身にぶつけられてくる
 叱咤の声や業務成績への反映、
 何よりそれらと相まって自らを査定し、
 容赦なく貶める“内側”の声。

 その生き方こそが、
 自分のみならず大切な家族を
 壊していくことに気づいたら、
 自分を受容することを学ぶときです。

 そうでなくては、
 何でも意志の力で成し遂げられると勘違いし、
 自分や周囲を打ちのめしながら頑張って、
 最後は自分も周囲もぼろぼろになって消えてしまう。

 もういいんだ、
 これ以上痛めつけなくていいんだ、
 誰かが自分にぶつけてくることは
 その誰かの気持ちや考えであって、
 何よりも優先するのは
 自分の心と体を守ることだ、
 そう考えるところからスタートしましょう。
 考えるところから、と書いた通り、
 自然に内面の感情として
 湧き上がってくるようになるまで
 続けることが大切です。

 痛めつけられている自分を想起して、
 痛めつけている相手に反撃するのではなく、
 彼・彼女の横に寄り添って守ること、
 誰に何を言われようと、
 外から見れば、
 格好悪くて、惨めで、残念な
 自分の肩に手をまわし、
 背中を暖め、
 よくやっているよ、と声をかけ、
 その暖かさによって傷をいやし、
 痛めつけられないためにはどうするのがよいかを
 “一緒に”考え、日々を歩いていく。

 最初は三文芝居としか感じられなかった
 そんな自分を受容する心の動きが
 本格的に胸の中にしみいってくる頃には、
 自分の内面も周囲の反応も変わってきます。

 自分を痛めつけることをやめると
 周囲もそうしなくなります。
 あるいは、
 痛めつけられていると感じていた相手の挙動が
 実は適切な注意やアドバイスであったことに
 気づくことになるかもしれません。
 本当に痛めつけてくる相手には、
 味方が出てくるようになります。

 自分が自分を扱うように、
 世界も自分と接してくることを理解するまでに
 私は随分時間がかかりました。

 ここに時間をかける苦労は必要ない、
 それが私が身に染みて学んだことです。

 お読みいただきありがとうございました。