自分の世界を生きようとしている間に、大切な人々がいなくなってしまった?

中谷英貴です。

 引きこもる方を座敷童子と、
 皮肉を含めて呼んだ人がいます。
 偉い某精神科医の方の言葉です。

 まだ引きこもる人が、
 ただ批判の目でのみ見られていた頃のことで、
 批判の的となっていた引きこもりの人が、
 実は家族の中で
 ある役目を担っているのだということです。

 座敷童子は東北地方で伝承された妖怪で、
 彼らがいる家は栄えると言い伝えられています。
 引きこもりの人が子供として居つく家が栄えている…
 という意味ではもちろんありません。
 ただ、例えば、彼らがいる家は、
 本来なら夫婦の間の葛藤が
 家庭崩壊の危機を招きかねない状況を、
 子供が引きこもることで、
 家の中のあらゆる問題を
 彼・彼女に帰結させ、
 時に夫婦が“協力して”対応を続けることで、
 家族を結びつける役割をしている、
 という解釈です。

 少なくとも一部の家庭には
 当てはまるのではないでしょうか。

 私は、子供の頃から
 父母の罵りあいに胸を痛めていました。
 眠るときに聞こえてくる彼らの悪態は
 時に子守唄代わりに聴く羽目になっていました。
 彼らの蔑みを投げつけあう様は、
 年を追うごとに凄まじくなり、
 高校生になる頃には、
 それぞれが私を味方につけて
 相手を叩きのめす協力をけしかけてくる有様。
 何度も仲をとりなしましたが、
 これ以上耐えることができそうになく、
 18歳で地元を離れました。
 その後、家族が離散し、
 自死者が出ることになったのは、
 原題のとおりです。

 息子である私が引きこもりになって、
 彼らとともに暮らしていたとしたら、
 原家族はまだそこにあっただろうか、
 父は自死を選択せずに済んだだろうか。
 墓参りやアルバムをめくる時に、
 ふと思うことです。

 それから、思い直します。
 自分ができる精一杯だったのだと。

 人は意味のないことはしない。
 不要な存在の人などいない。

 なぜか、文化庁長官だった故河合隼雄氏が、
 その昔、新橋のガード下で飲んでいる
 上司と部下の関係について、
 独自の見解を述べていたことが
 思い出されました。
 『飲みながら部下に説教している上司は、
 その部下にカウンセリングを
 受けているようなものなんです』

 お読みいただきありがとうございました。