“何もの”にでもなっていいという勘違い

中谷英貴です。

 先日も記載した、“何もの”にでもなれるとこと。
 “何もの”にでもなれる、ではないですよね。
 “何もの”にでもなる権利はあるのかもしれないけれど、
 やっぱりそこには自ずと制限がある。

 “何もの”かにはなりたい、ということであれば
 そうかもしれない。

 では今、その“何もの”かになっていますか?
 と問われたらどうでしょう。
 明確に首を縦に振ることができる方、どれくらいいるでしょうか。

 この“何もの”っていったい何でしょうね。
 父母の時代まで遡れば、
 その原型は見えるし、
 もしかすると今も変わっていないかもしれない。

 それは、世の中から認められること。
 何に対してと言えば、
 名声だったり、
 地位だったり、
 収入だったり、
 人々の関心を引くことだったり、
 社会への影響度だったり。。。

 食べていくことに精一杯だった世代が
 バブル崩壊までに築き上げた社会では、
 世の中から『ひとかど』の存在として承認されること、
 それが、
 お金をためて、
 持ち家をもって、
 家族がそろっていて、
 友人がいて、
 それらとともに、
 あるいはそれら以上に、
 求められていたある種の共同幻想でした。
 少なくとも一部の人々にとっては。

 それらを求めるあまり、
 心や体を害し、
 人の関係がおかしくなり、
 家族の形が崩れ、
 その原因が実は“そんなところ”にあることに
 気づいていない。

 “何もの”かになることには制限がある、と最初に書きました。
 “何もの”かになることが
 心身を大切にし、
 家族や肉親を大切にし、
 社会と人を大切することと並行して
 実現したいことであるならば、
 その制限とは、世の価値観とは別の尺度で、
 自分の内側から湧き出でるものに限る、
 ということになるのではないでしょうか。

 “何もの”かになれる、ということを
 そう考えるならば、言い換えれば、
 愛着のあるものにはなら、なることができる。
 あるいは
 愛着のあるものであれば、続けられる、
 そういうことのように思います。

 お読みいただきありがとうございました。