多様性のある生き方と私たちの居場所

中谷英貴です。

 多様性(ダイバーシティ)は
 世界のテーゼのように言われていて
 それが正しいかどうかはともかく、
 いろんな人がいた方がいいというのは、
 多くの方のコミットするところだと思います。

 好きなこと、得意なこと、自分の特性を生かして生きる。

 すると、
 優れた投資家が多数出現したり、
 唸るような大金持ちが多く出たり、
 世界的な有名人が排出されたり、
 多くの感動する物語が生まれたり、
 あるいは感動する実話があちこちにあったり、
 正義の革命が頻発したり、
 そこで主人公となる人々が
 理想像と持ち上げられたり。

 多様性を実践していくと、
 そんな世界が実現されるのだろうかと
 何となく想像してしまいました。
 ちょっとした妄想ですね。

 で。
 妄想なのに、疑問がわきました。

 荒れ狂っていたり、
 混乱してパニックになっていたり、
 焦燥感に駆られていたり、
 そんな人々が多く見受けられる社会と
 妄想した世界とが
 コインの裏表であるかのように
 感じられたからです。

 多様性の履き違いが引き起こす可能性とでも
 言えばいいでしょうか。

 落ち着くこと、
 静けさを持つこと、
 自分を肯定すること、
 居場所を感じること、
 生きていたいと思えること、
 それらもまた多様性の一環なのかもしれませんが、
 何でもあり、という思想によって
 脅かされる世界というのもまた、
 あるのだと思います。

 自分を認める多様性と
 自分の価値を外に強制しないこと。
 ある種の不文律と多様性。
 そこがうまく両立しないと、
 暴走の火種にならないのかな。
 特に、何でもあり、が
 コミュニティ、家族の中であるなら、
 そこには暗黙の強制性もまた必要にもなる。

 私たちが必要な居場所とは、
 自分の中にそんな自由度と規則のバランスを持つことの中に
 見出せるのかな、と思うのです。

 もっと言うなら、
 自分とコミュニティが継続していくためのそんなバランスを
 その上に置くという価値観を
 共有することが、
 多くの人にとっての居場所を確保することになる。。

 原家族がなくなってしまったことを振り返って
 そんなことを感じました。

 お読みいただきありがとうございました。