敵なんていない

中谷英貴です。

 自分がなぜそんなに苦しいのか、
 その本質的な理由がわかっていないと、
 原因を明後日の方向に求めてしまいます。

 原家族が離散した頃、
 働くことが苦痛で仕方がありませんでした。
 父の自死の後は、
 仕事や働いている人々に怒りを覚えていました。

 苦痛も、怒りも、確かに原因らしき出来事を探せば
 職場の中と言わず、
 そこいらじゅうにありました。
 私が原因のこともあれば、
 そうでないこともありました。
 勘違いもあれば、
 意図されたものもありました。

 でも、今から振り返れば、それは本質ではなかった。
 それをして、苦痛と感じる、怒りを覚える、
 その芽が私の体の中には常にありました。

 寂しかったのでしょう。
 秋に舞う枯葉に感じる寂しさとは異なる、
 自分の土台、“信”の感覚とでもいうべきものが
 根こそぎ崩れていくような、
 安定していられる場所がどこにも感じられないような
 怖れにも似た寂しさ。

 そんな言葉で置き換えられても、
 涙を流したり、
 哀しみをくみ取る術を知らず、
 そのエネルギーを良い方向に利用することもできず、
 当時は、この世の中への生きづらさに対して
 どこかで腹を立てていました。

 それらを手放すことを実践して、
 もっとも傷つけていた自分という存在を
 もう一度大切に自分の一部として
 受け入れるようになってしばらくした頃、
 ふと感じたことがあります。

 自分はいったい何に対して戦おうとしていたのだろう、と。
 何を、誰を、敵として見ていたのだろう、と。
 「敵なんていない」
 そんな言葉が自然に胸の中に沸き上がってきました。
 そこには様々な人がいて、
 様々な仕事をしていて、
 様々な趣味や人生があって、
 様々な生活がある。
 様々な人の様々な人生が様々に現れている。
 よほどの犯罪ならともかくも、
 そこに敵として扱うような人なんていない。
 それぞれの人が
 それぞれのシステムの中で
 最適となるように、
 言葉を発し、
 振る舞い、
 次の行動を起こしている。
 ただその重なりが
 人の関係となって目の前にある。

 仕事がスムーズに回りだし、
 人の関係が少しずつ楽になっていきました。
 どこで何に立ち向かうべきかも少しずつ
 わかるようになりました。

 何かに怒って、何かに文句を言っている時、
 不足しているものがあります。
 それを見つけて指摘するよりも、
 自分で工夫して補うことで、
 怒ったり文句を言ったりする面倒な労力を
 割かないようにすればいい。

 そうやって、働き方も生き方も
 少しずつよくなっていくのだと思います。

 お読みいただきありがとうございました。