自分の中の多様な自分とともに生きよう

中谷英貴です。

 不安や哀しみや怒りに“包まれる”と、
 幸せや愛しさを感じることができません。

 不安や悲しみや怒りといっても、
 “包まれる”ようなそれとなると、
 単なる不安と言うより心配事であるか、
 抑うつであることが多いかもしれません。
 同じように、哀しみは
 世界が終わってしまったような
 胸が張り裂けてしまいそうな
 頽れてしまいそうな
 ことをさすでしょうし、
 怒りは、自己主張の一部というより
 憎しみとか恨みになってしまっていることが多い。

 私たちは、不幸な感情に取り込まれると、
 そこに居つこうとする癖があるようです。
 癖という表現がしっくりこなければ、
 嗜好と言ってもいい。
 ますますぴんと来ないどころか、
 とんてもないこと言うな、
 と言われるかもしれません。

 ですが、これは明らかに、
 一部のそういった後天的な資質によるものです。
 自分の力“だけ”でなんとかできる、という
 間違った頑張り信仰とも通じる、
 生き方のことです。

 幸せな人生、自分が納得する人生を生きるために、
 とても必要な要素の一つは、
 自分が窮地に陥った状態の時、
 自分の中の『多様な』自分たちによって、
 混乱した自分が
 そこに抱いた感情を正当化して、
 暴走しないように
 相談して解を導く用法の体得があります。

 ある一つの感情に凝り固まっている自分を落ち着かせて、
 何をどうすることが
 これからの自分にとって妥当かを
 その時の感情に押し流されることなく、
 自分はどう生きようとしているのか、
 何かに固執していないだろうか、
 自分と自分の愛する人々を大切にする考えだろうか、
 本音では何を望んでいるのだろうか、
 といったことを、
 孤立の感情に押し流されそうな自分を慰撫しながら、
 一つ一つ読み解いていくのです。

 それができるようになると、
 必要のない
 不安に駆られたり、
 哀しみに動けなくなったり、
 怒りで人を傷つけたり
 といった
 私たちの人生の回り道と、
 私たち自身の心身を蝕む時間を
 回避することができます。

 最初に述べた、幸せや愛しさといった感情、
 その感情を感じている自分は、
 そんな時にこそ、役立ちます。
 自分たちの外側がどうであれ、
 私たちは“常に”幸せとか愛しさといったものを
 感じられるようになれるのです。

 家族が離散する少し前くらいから、
 父母の間には、互いに対する
 ある種の愛着の裏返しとしての憎悪が
 一種異様な空気として家族中で渦巻いでいました。
 極論すれば、
 それさえ大なり小なりどこの家庭の夫婦にも
 ある様相なのかもしれません。

 そんな関係性に取り込まれて
 よれよれになっていた私が、
 カウンセリングと心理の世界を学んで、
 カウンセラーの資格を取得し、
 当時の父母の状態が意味することを理解した時には、
 父はすでに自ら世を去っていて、
 母も弱ってしまっている状態でした。

 それが彼らなりの人生で、
 某専門家の言葉を借りれば
 彼らなりの幸せだったのだ、
 ということになるのかもしれません。
 ただ、当事者の肉親としては、
 できれば、
 もう少し早く自分がこのことを理解できていたら、
 と思うときがあります。
 少なくとも、大切な人を
 死なせてしまったり、
 尊厳を傷つけあうことを軽減したり、
 そんなことに詰めの垢ほどでも
 寄与できたのではないかと
 感じたりします。
 そんな感覚に捕らわれた夜更けなどには、
 時々哀しくなったりもします。

 そうやって俯きがちになる私を
 これまで一緒に生きて生きてくれた何人もの私が
 見守ってくれていて、
 今もこんな話を書かせていただいています。

 お読みいただきありがとうございました。