自分を被害者にしてるうちは世界はかわらない

中谷英貴です。

 随分昔に詠んだ歌です。

 我こそは、
 あ~、我こそは、
 正義の被害者なり~。
 我にたてつきせしものぉーっ、
 許すまじぃー

 念頭には、母親のことがありました。

 晩年になって再会するまでの母は、
 自らの生い立ちや夫との関係、
 自分も加担して壊れてしまった家族への
 被害者意識と加害者意識の狭間に苦しみながら、
 怒りと無力感に苛まれつつ、
 自分に近寄ろうとしない息子と娘に対しても
 理解に苦しんていました。

 自分の置かれた立場、
 家族に内在する微妙な関係性を
 心理学を通して頭では理解しながら、
 私もまた、母の限界を受け入れられなくて、
 もちろんそんな気持ちの裏側には
 そこで被害者をしている意味と
 そこにいることが自分を蝕んでいることを知ってほしくて、
 早くその場所から脱してほしくて、
 そんな状態で詠んだのが、
 最初の歌でした。

 要するにその歌は、
 そのまま自分に向けて
 言いたかったことなのでしょう。

 自分の身に照らせば、
 理不尽な経験もあって、
 自分では避けようもない責め苦もあって、
 自分の力ではどうしようもない痛みがあって、
 気がつくと、
 自分は被害者だ、と位置付けてしまっている。

 確かに“被害”だったかもしれません。
 周囲と比較しないことは、幸せの第一歩だというけれど、
 それにしても、
 なぜよりによって自分にこんなことが起こるんだ、
 そう感じるほど、
 悔しくて、悲しくて、やりきれなくて仕方がない。
 なかったことにはできないし、
 かといって自分ができることは限られている。 

 そんなとき、必ずやりきるべき3つのこと、
 それは、
 哀しみを感じて思い切り泣くことと、
 そんな理不尽に対して思い切り腹を立てること。
 そして、そうやって感情を開放するエネルギーによって、
 被害者という場所から動くこと。
 怒りや恨みや哀しみで、
 自分の人生を縛り付けないために。

 被害も、理不尽も、
 自分がその位置にいることの正当化にはならない。
 その感情は、その世界は、人に変えてもらえるものじゃない。
 その後の世界は誰か他の人がもたらしたものじゃない。

 だから、哀しい自分、悔しい自分を受け入れる。
 めそめそしている、
 うじうじしている、
 日々の小さな怒りに絡めとられている、
 ちっぽけで、
 せせこましくて
 貧相な自分を
 愛しさとともに受け入れる。

 お読みいただきありがとうございました。