その裏側にある感情を意識する

中谷英貴です。

 問題に落ち込んで苦しんでいるとき、
 自分の内側に芽生える感情。

 貶める、けなす、抑圧する、憎む、蔑む、無視する・・・。

 原家族が壊れた後、
 毎日、体を引きずるようにして仕事に出かけながら、
 人と話していても、
 働いていても、
 電車に乗っていても、
 食事をしていても、
 夜眠る時でさえ、
 パニックに近いほど強烈な焦燥感に苛まれていました。
 わけのわからない憤りの感覚に包まれ、
 やり場のない感情に翻弄され続けていました。

 今から思えばおかしな話ですが、
 原家族の状況に対する
 ショック、
 腹立たしさ、
 凄まじい寂しさ、
 見捨てられ感、
 何もできない無力感、
 絶望感、
 そういったものが骨の髄まで浸透していたにもかかわらず、、
 その理由が理解できていませんでした。

 そのくせ、
 他者から圧力を感じたり、
 親切でさえ自分の意に沿わないものであれば、
 なんだかんだと苛立ち、
 常に物事を悪いほうから見て、
 悪い結末へとつなげていて、
 自分の外側に悪意を設定しながら、
 “その裏側”には、自らを徹底的に
 貶める、けなす、抑圧する、憎む、蔑む、無視する、
 そういった感情が色濃く渦巻いていたのを
 覚えています。
 ついこの間のことだと思ったら、
 もう四半世紀以上も経過していたのですが。。。

 その反対に、
 落ち込みながら、
 抑鬱的になりながら、
 被害者の位置に甘んじながら、
 どうせ自分なんてと思いながら、
 “その裏側”には
 自分でも気づかないうちに、
 自分を傷つけた相手と似た雰囲気の人、
 公共の場で通りすがりの人、
 時には立場の弱い相手に、
 非礼を働いたり、
 微妙な嫌がらせをしたり、
 あからさまな敵意を見せたり、
 といった、
 攻撃性・加害性が存在したりもします。

 どちらも同じ原因に端を発する感情で、
 それが自分に向かうか、他者に向かうか。
 他者に向かう方が重症と言えるかもしれません。
 自分を覆いつくそうとする苦しさの感覚に気づかないまま、
 必死になって振り払おうとして出てくる行動ですから。

 晩年の父母の救いがたい衝突と
 そこで発せられた言葉、
 相手に対する行動の裏側に、
 徹底した自己卑下、自己喪失感が根付いていたことが
 今はよく理解できます。

 貶め、けなし、抑圧し、憎み、蔑み、無視し
 傷ついた自分としっかりと向き合い、
 感情の構造を理解し、
 自分を含めた誰かをこれ以上傷つけないように、
 受け入れ、一緒に生きていく、
 その気持ちを育んでいく。
 簡単なようで難しい、
 しかしその実践の先には
 人や社会との安定したつながりの一端が感じられる。
 それは私個人だけではなく、
 これまでにも多くの方が経験していることだと思います。

 お読みいただきありがとうございました。