癒しの本質

中谷英貴です。

 優しさと自律。
 両方あるといい。
 人に言えた口ではないけれど、そう思います。

 父が自死したとき、私は数百キロ離れた関東の地で働いていた。
 訃報の連絡が入たのは、肌寒い春雨が降る午前のこと。会社を途中で上がると、東名を飛ばして西へ向かった。現地に到着すると、久しく会っていなかった父が、寝顔のように安らかな表情で棺の中にいた。
 ちょうど、原家族の離散のショックと、それまでに内在化してしまっていた自分への蔑みから脱却し、周囲とのつながりを再構築している途中だった分、余計に堪えたことを今もよく覚えている。
 一度は脱したはずの、二度と戻りたくないと思っていた場所に、何かしでかしたわけでもないにもかかわらず、もう一度強制送還されたようで、やりきれなさと無力感に支配されそうになっていた。実際には、それらがもたらす無気力、そしてその先にある大鬱を逃れようと無意識が演出した周囲への怒りによって、自分で自分を随分振り回す日々が続いた。

 これは、父の自死の頃の様相です。
 自分を被害者にして扱っている間、物事は一向に良くなりませんでした。
 そこからまた、もう一度自分を立て直すためにエンパワーする(力づける・勇気づける)必要があり、その過程で癒すということの意味を学んだと思います。

 『周囲とのつながりを再構築』と書いたけれど、何かが足りない、とも当時から漠然と感じている自分もいました。
 今になってわかるのは、素の自分の受け入れと一体化が十分できていないなまま、苦しさから逃れようと、他者とつながりを優先していたため、心の奥底の不信が払しょくできてなくて、やることなすことが表層的になってしまっていたということです。

 奥底に燻っていたのは、
 疲れたままの心
 信じることを見失ったままの心
 痛みを抱えたままの心
 重く暗いままの心
 何かをあきらめたままの心
 機能しなくなったままの心

 生きる喜びや気持ちよさ、優しさや楽しさをなくしてしまったわけではありません。ただ、それらが湧き上がるより先に、怖れや怒りが寄せ集まって出来上がった暗く高硬度の塊によって、吸い込まれ、抑え込まれ、外に出なくなっている状態が、信頼とか愛情といった感覚が有効に機能することを阻害していたのだと思います。。

 そんなある種の感情を閉じ込めている高硬度の塊を“バランスよく”溶かしていくこと、それが癒しの本質です。
 だから、癒すということには、ある種の納得感が必要です。
 優しさが甘えに変わる胡散臭さと、律する厳しさばかりに走る強制性は、本来の意味での癒しとは呼べません。
 包み込む優しさと、反省。
 無条件の受け入れと、欠点の修正。
 おかしい部分もあった、
 良くない部分もあった
 変な部分もあった
 でも、あの時の精一杯を生きて、できる範囲でできることをやった結果だ。

 それは優しさごっことは違います。
 何でもかんでもあなたが正しかったということとは違います。
 赤ん坊が親に全てを許容してもらうこととは違います。

 苦しんでいる、悩んでいる人は、すでにそれとは一線を画す分別を持っています。それがなかったら、ただいい子いい子という詐欺のような似非癒しに引っかかってしまっているはず。分別があるからこそ、苦しむし、悩む。そして、時には自己を正当化したくもなるわけです。
 分別がきちんと働くと、苦しみ悩む自分の中から、精一杯の自分、追い詰められた自分をしっかりと受け止め、抱きしめ、しかしその過程でおかしたエラーについては反省するようになります。

 癒しは甘えとも懲罰とも一線を画す作業です。
 専門家と二人三脚でもいいし、できる人は試行錯誤しながら自分自身で体得してもいい。ともすれば暴走しがちな感情をもう一人の自分が静かに信頼して見守りながら、抱きしめることと律することを“バランスよく”行っていきましょう。

 お読みいただきありがとうございました。