止まってしまった時間が今を遠ざける

中谷英貴です。

 動かない、動けない、しかし動かなきゃいけない。
 必死になって明日を探している。
 でもどこにも何も見えない。
 時間ばかりが過ぎていく。

 それでも、何とかしなくちゃ、と、焦って、働いていても、引きこもっても、ふざけていても、意味不明な輩と張り合ってても、誰かを恨んでも、やっぱり何も変わらない。
 やりたいこと、好きなこと、得意なことを探り当てても、やっているうちに指の間から零れ落ちるように消えて続かない。
 自己啓発、癒し、未来に焦点を当てて、今取り組もうとする対象を浮かび上がらせると、自分の本音から遊離していくように感じる。

 停止したままの時間。
 止まってしまった時。
 そこにいつまでも佇み、しがみつき、怒り、哀しみ、ずっと見守っている自分。
 
 止まってしまった時間が、もう一度動き出さないと、やりたいことも、好きなことも、得意なことも、見つからない。たとえ見つかったとしても、本心から心を躍らせることができない。

 彼は、彼女は、見守っているんだ。
 その哀しい時間を。
 息苦しい時間を。
 怒りに満ちた時間を。
 すでに終わってしまった時間を。

 なぜなら、そこで見守っている限り、決して訪れることのないいつか、その時間を、自分の手によって解決できるかもしれない、終わりにさせられるかもしれない、元に戻すことができるかもしれない、そう思っているから。
 そして、長い歳月が過ぎ、年齢を積み重ねるうち、それが不可能である現実を受け入れざるを得なくなるほど、混乱するようになる。

 その、時の狭間につかまってしまった“あの頃”の自分を迎えに行こう。
 手を引っ張って、強引に連れ戻すんじゃない。
 そんなことをしても何の意味もない。
 それに迎えに行く気になるころには、“あの頃”に降りていくことが必要だと感じるようになっている。
 きっと迎えに行った先で、今の自分もまた“あの頃”の想いを、痛みを、哀しみを、もう一度確認する。そして、“あの頃”の自分が、ほんとは何を思っていたか、どうしたかったか、どれほど心細くて、どれほど寂しくて、それでいて何もできない自分に、どれほど無力を感じていたかを、まるで今朝起きたばかりのことのように感じ取りなおすはずだ。
 そして少し落ち着いた後、そのすぐ傍にある、懐かしい、愉快な、満たされた時間もまた、そこにあったことを思い出すに違いない。

 その時、こう感じる。
 もうそこに佇んで見守る必要はない、立派に自分の足で歩いて行ける、と。
 必要ならまた、戻ればいい。
 でも、見守るなら、それはそこで佇みながら傷つき続け、それでも何とかしようともがいている“あの頃”の自分自身だ。そんな思いをさせる人々に人生の責任をお返しして、今に戻ってこよう。
 
 それが、今、を取り戻す、最善の方法だ。

 お読みいただき、ありがとうございました。