絶望からの脱出

中谷英貴です。

 孤独、孤立
 たった2文字の言葉。
 この状態を感じ続けることに耐えられる人は多くないと思う。
 誰ともつながる感じがなく、どこに向かうこともできず、何をする気力も湧かず、暗く重く鈍く痛む心を抱えて、これから先を生きていく以外の選択肢が見当たらない、という感じ方が常態化してしまいます。絶望とはこのようなことを言うのでしょう。
 
 独りでいること自体は、必ずしも孤独・孤立ではありません。
 自ら選択して、独りでいたくなることはあるでしょうし、それは心の中に寄り添う誰かがいるからこそできることだと思います。例えば、悦に入って孤独を楽しむ人がいますよね。悦に入るというか、感傷に浸れるのでしょう。
 自分が原家族の問題を感じて苦しんでいた頃は、そんな人のことを「ようやる」と冷めた目で見ていた時期もありましたが、心理カウンセリングや家族病理のメカニズムを学び、相談される方の悩みを伺う中で切に感じることは、感傷に浸ることができるということは、実はとても大切な心の力だということです。少なくとも、彼(彼女)の心の中には、自分を見つめる誰かを想定できているということですから。その状態は、孤独とはずいぶん距離があります。

 相談し、頼りにし、時に甘えられる親や伴侶の対応が期待できない人は少なくありません。職場や友人にそのような相手がいればよいのですが、親密なはずの家族に期待できない対応を、外の誰かにお願いするというのも、そのような人ほどなかなか難しいようです。
 
 そんな方のためにこの場で言えることは、自らの内側を語ることの気恥ずかしさ、吐露することへの恥の感覚、弱さを見せることを良しとしないプライド、耐えるべき・自らの力で解決すべきというべき論、そういった考え方の基準を少し下げてみてください、ということです。そうすることで、そのままでは期待できなかった、新しい人とのつながりや自らの変化への期待が高くなるからです。
 時代はどんどん移り変わり、今は10年前には考えられなかったような技術、システム、制度、文化、人のつながりが出てきています。
 自分がそうであるべきと思い込んでいる自らの在り方など、些細な決まりごとにすぎなくなっていたりします。
 誰もが持っている、頑なさや隠したいところは、ある種のウイークポイントとして孤立感・絶望感へのトリガーとなりうるものです。
 
 よく言われるように、強いものが生き残るのではなく、変化するものこそが生き残る、ということなら、その変化を促す考え方を、自らの内に醸成することが必要です。

 父の自死は、私の世界、生き方を大きく変えました。
 目を閉じた最後の静かな表情を今も昨日のことのように思い出します。

 自死は、明示的に意識して選択する行動ではないと思っています。
 ある種の流れの中で、気が付いたらそうしている、そういう類の行動です。
 だからそうならないためのこと、生きるために自らの変化の可能性をあらかじめ内在化しておくようなあり方を用意しておくことができるといい。

 死を選択するより、人生をあきらめてしまうよりずっと前に、できることはまだ語りつくされていないと感じています。
 これからも、機を見て書いていこうと思います。

 お読みいただきありがとうございました。