手放す勇気を得たとき
中谷英貴です。
私が通った学校には、様々な家の子供が通っていました。
皆さんも同じではないでしょうか。
特に、時代を遡り、公立学校が主流だった時代には、多くの学校がそうだったのではないかと思います。
小学校を例にとると、私のようにサラリーマンの家の子供は多かったですが、お医者さんや弁護士の家の子供もいれば、惣菜屋やハンコ屋の子供もいて、大工や職人の家の子がいて、当時は毎月封筒に入れて支払っていた給食費をすぐには支払うことができない家の子供がいました。小学校も中学校も街中にあって、学校のすぐ近くに住んでいる子がいて、遠くから通っている子がいて、同じ年には見えないきれいな女の子や格好いい男のことがいるかと思えば、昔の漫画に出てくるような見事に青っ洟をすする子がいて、やたら足の速い子もいれば手先の器用な子や誰とでも仲良くできる子がいて、喧嘩の強い子、大人しい子、よくしゃべる子など、今振り返っても本当にいろいろなキャラの子が同じ教室にいたと思います。特に小学校時代は、そんな感じが強かったような気がします。
みんなが同じように学校に来て、同じように授業を受けて、一緒にいたものだから、必然、単細胞頭の私は、様々な性格の同年代の子供たちが生まれ育った家庭環境も、概して自分と似たようなもので、両親の中は悪いけど、それでもそれなりに感情をやりくりしながら何となく続いていくものだ、と漠然と思い込んでいました。
しかしその後、同窓会や、地元に戻った時に時間をとって話をしして知ったのは、そんな単細胞の想像とは全く異なる現実でした。
詳細は控えますが、ある子は父親の顔を知らず、壊れかけた母親に胸を痛めていたり、両親を失って兄弟とともに親類の家で息をひそめて暮らしていたり、今でいう典型的なDVの父親を持っていたり、という状況でした。もっと哀しい状況にいた子もいます。そんな自分と同じ年齢の子供たちが、一緒に学校に通って、私の傍にいてくれたということに、当時の私は微塵も気づくことはありませんでした。
大人になって、自身が原家族の離散に混乱していた私が、その後紆余曲折を経て自分を取り戻していく原動力の一つとなったのは、明らかにあの時代の彼ら彼女らの生きる力を間近で見ていたことだと思います。
きっと人には言えない苦しみや哀しみも幼い心に抱えていたはずの彼らが、自分と同じように生きていたという事実は、二度と元に戻らない家族にしがみつこうと体に宿していた怒りや哀しみを手放す勇気を与えてくれました。もちろん自分で自分を受け入れ続けたことは何よりも大きな力でしたが、そこに自分以外の他者との結びつきをもたらしてくれたのは、同じ時を過ごしてくれたそんな人々です。
何人かは今、幸せに暮らしていることを知っていて、それがまたこれからの生きる勇気を与えてくれています。
お読みいただきありがとうございました。