フツーと理想の履き違い

中谷英貴です。

 私たちは社会に出るまで、多くの人が自分の暮らしている家や社会が、ごく一般的、フツーだと思っています。中には、社会に出た後も、そう考えている人は少なくありません。

 実際、所得の多い家もあれば少ない家もありますが、ぜいたくを言わなければ衣食住が何とか満たされ、何とか学校に通うことができている人も、家にヨーロッパ車がずらりと3台並んでいて、週末はちょっとしたレストランで家族で食事をする人でも、アッパーダウナーくらいの感覚差はあっても、まあフツーと思っているのではないでしょうか。
 
 もっとも、バブル崩壊、失われた30年を経て、平成が終わる頃には、一億総中流の思い込みは消え、格差社会が共通認識になりました。
 格差が社会的に広がると貧困率が上がります。ちなみに、日本はOECD諸国の中で4番目に貧困率が高いそうです。
 これは、所得の面から見て、フツーが少なくなったことを意味します。
 同時に、頑張って所得を上げる意欲とか積極的な試みが薄れてくる可能性も示唆しています。

 不遇、被害者になると、隣の芝生が青く見えるようになることがあります。
 そうなる人もいるし、ならない人もいる。

 所得に限った話ではありませんが、青く見える理想が自分には与えられてないと感じ(それは実際にそうかもしれません)、そこに不遇の原因を求めてしまうと、その理想をフツーとはき違えるようになります。フツーの中にある嫌な部分を、あたかも自分だけを苦しめる独自の問題にすり替えてしまうからです。不足、足りないことを数えだし、被害者に固定され出すループの始まりです。
 それはさらに哀しい方向に人の関係を向かわせてしまう。

 理想は理想。100%体現できている人はいません。
 皆、どこかに不足があって、そのフツーを生きています。
 そう考えると、出来ることがあると思えるようになりませんか。