引きこもりの効用

中谷英貴です。

 家族の問題を引きずっていた頃、早く隠居生活がしたいと当てもなく考えていた時期がありました。お金や隠居先のあてがあったわけではなく、とにかく会社に通って、(仕事上で)人と会って、給料を稼いで、という一連の行為のどれもが、呼吸ができなくなるほど苦しく感じていたからです。一時期は、毎晩ウイスキーに逃げていたし、夜飲まなくなってからも、ずっとそんな気持ちが付きまとっていました。20代の頃です。

 引きこもりについて言われるようになって、随分時間が経ちました。
 今はすでに100万人を超えていて、過半数が40歳以上だと言います。日本の労働人口の2%弱ですね。
 引きこもる人を、いまだ単なる甘えととらえる向きがいて、何を勘違いしているんだろうと思うことがありますが、人は意味のないことはしないもので、引きこもりは臨床心理的には、家族の状態のメタファ(暗喩)的な意味合いを持つことがあります。
 いずれにせよ、引きこもらなくても大過なく過ごせるなら、それに越したことはないのかもしれません。

 第二次大戦前までは、遊び人という、定職にもつかずふらふらとしている大人が一定の市民権を得ていたといいます。
 戦後、“やはり”勘違いで、頑張れば何にでもなれる、というおかしな風潮がまかり通りだし、加えて機会の平等が万人を競争社会に放り込むことになってしまいました。競争しなくて済む人や、競争しないメンタリティで生きられる人もいるけれど、少なくとも競争の中に身を置いてよれよれになっている人も圧倒的に増えました。

 医療が進み、労働時間が削減され、セーフティネットが進化し、人の暮らしはよくなったのは確かだから、世はよくなっているはず。ただ、どんな時代にも勝ち負けはあって、そこからはじき出されたことに端を発して、自らを不適応を感じる人、そのことで自分の存在さえ許せないような人もまた増えたように思えるのは私だけかな。

 引きこもりについて考えるとき、秋葉原連続殺人事件の加害者のことが思い浮かびます。何をしてもうまくいかない、やっていけない、そんなことをずっと感じていた彼が、強力な支配者である母親に逆らってでも引きこもることができていれば、哀しい惨劇は起きなかったのではないかと思ったりします。先に、引きこもりは家族のメタファとしての意味合いがある、と述べましたが、この家族はおかしい、ということをそういった行動で示すことができていたら、と思うのです。
 そこから心理療法なり、メンタルクリニックなりにつながれば、思い悩む他の人たちと出会ったり、新しい自分を発見する機会が得られたかもしれない。彼が内に抱えていた凄まじい怒りの地獄は、その世界観のままで社会と接したが故に暴発してしまったもののように思います。

 引きこもりの効用というのがあるとすれば、そんなことではないでしょうか。

お読みいただき、ありがとうございました。