それでもやっぱり『貪瞋痴』をやめてみよう
中谷英貴です。
仏教用語の『貪瞋痴』。
貪:貪り。行き過ぎた欲。
瞋:自分の理が通らないことへの怒り、憤り。
痴:愚痴、迷い。愚かであること。
宗教や道徳で語られる言葉を自分に当てはめることを、混乱していた頃の私は、頑なに拒んでいました。胡散臭く感じていたんですね。
仏教に限らず、あるいは宗教に限らず、それができないから困ってるんだ、ということを、やめましょう、という教えはあちこちに氾濫しています。
それらの教えは本来、混乱し、怒りや怖れや哀しみに打ち震えている人こそ実践が望まれるものですが、そこに陥った経験のあるものからすれば、それは何も言っていないに等しい、とも受け止められます。
それまで、正しい教え、教育なるものを家族や学校で教わって、時に怒鳴られたり引っぱたかれたりしながらも、それが必要と言われ続けて身に着けてきたら、その教えを伝えてきていた存在自体がおかしくなったり、おかしなことをしたり、自分を傷つけてくるようになった。
正しさの基準が不明になれば、生活の土台に存在する宗教や道徳など、いの一番に疑うようになるのはやむを得ないかもしれません。
『貪瞋痴』をやめましょう。
そう聞いて、反発を覚える人は、怒って、享楽にふけって、疑心暗鬼に浸って、ひとまず好きにやってみればいい。
そして、その上で、やっぱり二進も三進もいかなくなったら、戻ってほしい言葉です。
人の関係、自分の混乱、日々の生活、そして人生が、やっぱりどうにもうまくいかないように感じてしまうなら、『貪瞋痴』をやめるように心がけてみませんか。
少し注意をして、気づいたときにほんの少しでも抑えてみるんです。
すると、不思議なことが起こり始めます。
自分が、そして人の関係が少しずつ楽になっていくんです。
それは、自分の変化の、ほんの始まりです。
貪:お金、食べ物、地位、土地、異性…。どれもきっと、あるにこしたことはないし、本音ではほしいモノばかりだと思います。でも、生きる上でほんとに必要なモノって、そんなに必要ですか。必要以上のものを求めると、自分が傷つきますよ。
瞋:正しい怒りなどない。そう言われたことがあります。少なくとも、怒りを面に出したり、持ち続けたりすることは、結局自分自身を痛めつけていることです。損ですよ。
痴:今の苦しい状態を保つ方法を実践してしまっていますよ。
『貪瞋痴』。どれも自分の首を絞めていること。
手放しましょう。
お読みいただきありがとうございました。