自分の存在の不思議さ
中谷英貴です。
会社員をしながら、仕事も人間関係も苦しくて仕方がなかった時期が続いた頃、『不意に降りてきた想い』があります。今は素直に受け止められますが、当時は降りてきた途端に、何とか否認しようとやっきになっていました。
原家族が離散するプロセスは、そのまま両親の不和(という言葉では到底表現しえない陰惨な応答の繰り返し)の極限を見続けることでもあって、それがそのまま世界を映し出す錯覚を内在化することが、場所や人や仕事を問わず、生きづらさの温床となっていました。
そんなとき、降りてきた想いです。
『不意に降りてきた想い』とは、まだ生きているということ、そしてどんな生い立ちであれ、自分の中には苦しみ以外に失いたくない多くの感覚が根付いているということ、そこには今自分を苦しめている元となる感覚と同じように、自分を生かす原動力となる感覚も存在しているということです。
今働いている会社がどんなところであれ、そこにいて給与をもらっている。嫌ならやめることができる権利だってある。きっと大好きなことを仕事にしてそこにいるわけではないかもしれない。でも、生きる糧を得るすべを持っている。もっと楽な仕事、もっと楽しい仕事、もっと高い給料、もっと短い労働時間、もっと小さな責任、もっと受けがいい仕事…。
それらを否定することは全くない。ただ、今そこにいる自分が“自分にとって”納得する働き方ができなければ、そのあと何をやっても、どこに行っても、また繰り返すことになってしまわないでしょうか。何も、罵声を浴び続けて耐える、殴られ続けて耐える、と言っているのではなくて、続けるにしろ、やめるにしろ、自分が納得できることはやった、といえるか、です。自分を認められるか、どいうことです。
仕事の話をしましたが、これは他のことでも同じだと思うのです。
生まれた場所、持った親、受けた教育、躾、生い立ち。
もしかしたら、望まれずに生まれてきたかもしれません。
残酷な環境で育ったかもしれません。
世の中は敵ばかりと教育を受けてきたかもしれません。
当たり前といわれる環境に乏しかったかもしれません。
生きていることを否定されたかもしれません。
でも、そうやって生まれた自分は、曲がりなりにも生きてきました。
自分が生きるために必要な心のエネルギーがありました。
認めたくないかもしれないけれど、実はそこには、ひたすら自分を見守り、慈しみ、これからを肯定してくれる、数えきれない過去もまた、ひっそりと心の中に根差しているということです。
ちょっとしたことばかりかもしれません。
街角の会話、小さな蝶々を追いかけたこと、落書きにゲーム、かき氷、木枯らしの音。そこに理想の親や兄弟が見当たらなくても、やっぱり彼らはそこにいて、そんな暮らしの中で自分を生きてきた自分がいます。
そんな自分、そんな環境、それでも生きてきた自分、そんな自分を丸ごと大切な存在として受け止めることを繰り返すうち、生きづらいだけだった日常に変化が訪れるようになります。
やっぱり大切な自分の人生だ、と。
やがて思うようになります。
今ある自分に、そう感じさせてくれる時の流れ、環境、人に、やはり最後はこの世に産み落としてくれた親、母に感謝するようになります。
生きてきて、生まれてきてよかった、と。
お読みいただき、ありがとうございました。