自分の長所に目を向けられるといい

中谷英貴です。

 父母が互いに罵り合っている光景を
 見ているしかなかった幼い頃、
 なぜそんなことばかり言いあうのか
 わかりませんでした。

 いささか怖い父とヒステリックな母でしたが、
 子供の私は頼りにしていたし、
 頼りにできる部分があったからこそ
 信用もしていました。
 頼りと言っても、
 何か特別優れた能力があるとかではもちろんなくて、
 同じ屋根の下で、
 同じ時間を過ごし、
 時に残酷だったり、
 時に哀しいことが続いたりしても、
 つまり、今からすれば歪んでいたとしても、
 私や妹に向けて彼らなりの関心を示し続けてくれた
 ということです。

 父母の衝突。諍い。泥仕合
 今はもちろん、なぜなどとは考えませんが、
 ただ互いが互いに自分の長所をみる癖があったら、
 そんな衝突自体も少なかっただろうとは思います。

 相手の、ではなく、自分の、というところがミソ。

 人は自分を見るように他者を見てしまうから…。

 不思議ですよね。
 自分の長所に目が向けられない人というのがいて、
 私の父母はその典型でしたが、
 不思議なくらい、自分を否定批判する分には
 あたかもそれが唯一の正当なロジックで
 導き出されたものであるかのように
 受け止めてしまう。

 必然、目の前の近しい人にも
 その見方をしてしまう。

 …それやって、結局どうしたいのでしょう。。。
 俺は、私は、こんなに正しいことを言っているんだ。
 君は、あなたは、これほど確実に間違っているんだ。

 ある理屈が組み立てられるということは、
 180度異なる理屈だって組み立てられるのに。

 その理屈を、
 あなたの胸がときめく最愛の人に、
 自分を慈しんでくれた最も大切な人に、
 5歳の幼い君に、
 そうやって向けるのでしょうか。

 それとも、同年代の関係なら許される?

 そう、自分の長所なんて探さなくたって
 実はいくらでもあります。
 それを認める素地がない、という人もいるけれど、
 今も生きているということは、
 自分という人間の中にある複数の自分の中の
 少なくとも一人は、
 そんな長所を認めているということなんです。
 ただ、そのままでは感じられないかもしれないけれど。

 結局父母は、相手の中に自分の長所を見出すために
 必要な一線を越えて離れてしまった。
 しかも父は。

 身に染みるほどに自らの長所を実感することは、
 実は
 もう一人の自分を、
 近しい関係の人を、
 そして同じ境遇にある人を
 認めること、救うことになると思うのです。

 馬鹿らしいと感じました?
 それはそんな世界を知らないだけではないでしょうか。

 お読みいただきありがとうございました。