パラドキシカルな問題はパラドキシカルな発想で解決する

中谷英貴です。

 私たちが傍から見て、
 歪んだ生き方、
 嫌な生き方、
 おかしな生き方
 をしている人であっても、
 他の人々と同じように、
 自分が苦しんだり傷ついたりしたことを避け、
 自分が楽しかったり喜んだりしたことを得られるように、
 自分自身を変えて生きてきています。

 先に、『私たちが傍から見て』と言いましたが、
 もしかするとある人から見れば、
 私も、あるいは私たちも、
 歪んだ生き方、
 嫌な生き方、
 おかしな生き方
 をしている人かもしれません。

 で、
 そんな生き方をしていることが時に、
 そんな生き方によって得ようしている
 幸せや楽しさや他者からの評価を
 遠ざけてしまっていることがあります。

 心理学的にはパラドックスと位置付けられることで、
 例えば、
 認められようとして、
 一生懸命に資料を作って上司に持っていくたび、
 重箱の隅をつつくようなミスまで含めて叱られ続けた人が
 徐々に報告そのものをすることができなくなって
 その場所に居づらくなって会社を辞めてしまうというのは
 意外に少なくありません。
 私たちは、自分を傷つける相手から逃げることによって
 何とか生き延びてきた生物の子孫で、
 現代社会の中であっても
 その本能のようなものが色濃く息づいています。
 その後、部署の移動や転職を繰り返すたび、
 似たようなことが起きて
 どこにも居場所を感じられなくなってしまう。
 上司とはいえ、
 どこの馬の骨(と言っては失礼ですが)ともしれない
 一人の社員との関係が苦しくて仕方がなくて、
 これ以上は無理と心を守るために対処し続けたら、
 追い込まれてしまった、
 パラドクスとは、そういうことですよね。

 相手も所詮は雇われ人で、
 さらに上からつつかれていて、
 仕事上は正しいから
 とりあえず言うことだけは聞いておくか、
 でも接してくる態度や言葉の非礼はスルーするぞ、
 とできれば何の問題もないし、
 仕事、特に会社のそれはある意味
 そんな見方だってできるはずなのですが…。
 これもまたパラドキシカルな見方ですね。

 パラドキシカルに追い込まれたのなら、
 出口もまたそんな発想のもとにあるものだと思います。
 
 昔の私も、そして父も母も、
 できなかったなあ…。

 お読みいただきありがとうございました。