過去が変わる

中谷英貴です。

 とても有名な(?)話。
 半分水が入ったコップの見方。
 まだ半分あると見るか、
 もう半分になってしまったと見るか。
 足るを知る話でもあります。

 自由な恋愛と結婚。
 自由な職業選択。
 頑張って大学へ行くこと。
 それも偏差値の高い学校へ。
 良い会社、大きな会社に入ること。
 高い収入とステータスを得ること。
 世の中への自慢。

 言葉、表現、願いの強さは違っても、
 そうやって教育を受けた人は多い。
 私もその一人です。
 
 貧しさからの脱却、
 劣等感の克服、
 可能性の獲得
 そういったものを求めて、
 やればできる、と誰もが思って
 第二次大戦以降
 多くの家庭で多くの人が
 『頑張って』きました。
 
 このスタイルは、折に触れて
 「もう機能しない」とか
 「時代遅れ」とか言われながら、
 高度成長期も
 バブル崩壊時も
 平成の失われた30年も
 そして、大企業が倒産し、
 首切りが行われるようになって久しい現在も、
 なぜかあちこちの家庭で
 続けられています。

 これらの流れと並行して、
 明確になったことが、2つあります。
 
 1つは、生活満足度に変化が生じなかったこと。

 慶応義塾大学で幸福額を研究されている、
 前野隆さんの著書に書かれていたことです。
 GDPが増加していた1960年~2010年の間、
 生活満足度は実は変わらなかった、
 というデータがあるそうです。

 もう1つは、自殺、離婚が増え、
 出生率の低下が進んだこと。

 家族や親類や親しい者の間で
 長く形成されていたはずの愛着が
 自由と引き換えに麻痺して機能しなくなり、
 現実が、
 寒々しく、
 空々しく、
 ドライに感じている人も、少なくない。
 必然、人の間のつながりも
 どんどん表層的なものになっていく。
 
 私が長く、そんな見方・感じ方を抱えて
 生きてきたからか、
 そんな相談を聞くと、
 その方の精神活動に思いを馳せ、
 耐えるばかりの日常の話と相まって
 胸が痛みます。

 私たちが生きているということは、
 それだけで、
 少なくとも過去のいくつかの時期に、
 嬉しかったり、
 楽しかったり、
 後から振り返って幸せだったり、
 感じたことがあります。
 怒られそうですが、断言します。
 それはその後、
 どんな悲劇や惨劇があろうとも、
 失われるものではありません。
 
 そして、そう感じていたとき、
 あなたの傍には、
 今現在は遠くなっているか、
 概して近づきたくなくなっているか、
 疎遠になっているか、はともかく
 誰かがいました。
 その誰か、は多くの場合、
 家族であり、
 親類であり、
 あるいは早くに親をあきらめた人なら、
 仲間でした。
 仲間は別に、人であるとも限りません。

 あなたが、
 興味津々で何かに夢中になって、
 気持ちよさを感じて、
 また今度やってみようと思って、
 時を過ごす中で、
 あなたの傍にいた誰かもまた
 笑ったり、怒ったりして、
 何某かの影響をあなたに与えて、
 それはあなたの感情や行動の
 基準になっていたと同時に、
 今もあなたの、
 心の一部となり、
 人といることや、
 毎日を生きることの
 力となっています。

 信じられない方には、
 きっと信じられないでしょう。

 ですが、自分自身を受け入れるほどに、
 かつて自分を苦しめた競争ばかりの生き方や、
 自分の非力さ・無力さを植え付けられた時間や
 強制性を課しながら崩れていった親や、
 同じように苦しんでいる親類や、
 そういった諸々の時間や人もまた、
 完璧どころか、
 受け入れる前の自分と同じように
 ある種の愚かな存在だったのだ、
 そう思えるようになります。

 そして、そう思えたことで、
 その時々の出来事や
 そこにいた親や親類や仲間に対する、
 時に胸を締め付けられるような、
 時に心が躍るような、
 時にしみいるような
 愛着の感覚が戻ってきます。
 すると、自分以外の身近な人々の
 笑顔や、喜びや、言葉や、行動もまた
 素直に受け入れられるようになります。 

 その感覚こそは、
 かつて自分を突き動かしていて、
 今もまだ奥底でかすかに脈打っている、
 心の力です。

 過去が変わる、とは、
 思考を変えることも大切だけど、
 それ以上に、
 生きてきた中で見ないようにしていた
 あやゆる出来事を
 もう一度自分の中でしっかりと感じ取り、
 自分の一部として生きなおすことに
 他なりません。
 
 お読みいただきありがとうございました。