街の中の自然

中谷英貴です。

北陸に暮らした2年間を除いて愛知と神奈川の街の中で生まれ育ったせいか、家の近所を流れる川や公園の木々や小さな畑が私にとっての自然でした。
川で釣りをしたり小魚を取ったり、公園や畑で蝉や蝶々やトンボを取ったり。

社会人になってしばらく、車を持っていませんでした。
自転車もなかったな。
必然、どこへいくにも公共交通機関を使うか、そうでなければ、歩きでした。
社会に出て最初に住み着いた街から、一番近い川までちょっとした距離があって(今GoogleMapで測ったら5㎞以上あった)、電車で2駅分のその距離を休みの日にペタペタと歩くことがありました。川と言っても、周囲が市民農園やら田んぼやらがひろがっているせいか、護岸整備もまともにされていないためか、意外に静かで、おまけに流れの緩やかなたまりには真冬でも流線型の小魚が群れていたりして、私のとっておきの場所でした。

親とは離れて暮らしていましたが、毎夜母親から、呪詛の電話がかかってきました。
夫(私の父親)が家を出ていったこと、自分が過去に受けた仕打ち、もう人生は終わりだ…。
実家で暮らしていた頃から聞き続けた言葉。
聞くたびに、胸が張り裂けそうになる言葉。
なぜ自分に聞かせるのだろうと苛立ちと憤りを覚えた言葉。
それでも一度は何とかしてあげたいと思って、心を突き動かされた言葉。
それに対して、なだめても抗議をしても何を言っても、母はその言葉を聞かそうとする行為をやめようとはしませんでした。そして、それ以外何の行動もおこそうともしなかった。

母と和解するまでの長い間、心が折れそうになったり、苦しくてどうしようもなくなる自分を支えてくれたのは、心理やセルフヘルプの知識・知恵や、幾ばくかの友人や同じ問題を抱えながら生きようとする仲間たちとともに、身近な自然でした。
身近というには距離が離れているかもしれませんが、たった一つそんな場所を知るだけで、視線はいつしか、身の回りのあらゆる自然の存在に向けられるようになりました。
もっと小さな水の流れの場所、街路樹、花壇、青空や雲、夜空に浮かぶ月、肌をなでる風、花の匂い、街中を舞うトンボ、何とかごみ袋からエサを取り出そうとするカラス、スズメやハト、空を赤く染める美しい夕陽、柔らかい雨の音、田んぼを泳ぐオタマジャクシ。スイカや桃の季節が終わり、梨が売り始められました。もうすぐ柿も出回るはずで楽しみ。海ではあと1か月もすれば、カレイが産卵のために浅場に接岸しだすはず。釣れたてをさばいて寿司にして食べよう。周囲に吹聴ばかりして、人に食べさせたことは一度もないけど。
水も陸も空も、朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、美しいもの、懐かしいもの、人とは異なる軸で生きているもの、そんな自然が私たちの暮らす街の中にはいたるところにあります。

親や上司の存在にかまけ(ているわけじゃないのは重々承知してますが)、仕事に忙殺され、人間関係に日々翻弄されて、気がつくと得体の知れない感情に追い込まれてしまっている。

最初は近所の小さな川でいいと思います。花壇でも、街路樹でもいい。なんなら、隣の家、になければ、近くのお店に飾ってある花でもいい。蝶々なんかが舞ってるともっといいかも。
私たちが戸惑う人の関係からいっとき別のところへ視線を預けてみてください。
何もかもハッピー、とはなりませんが、そこにある世界もまた私たちの一時的なよりどころにすることができる場所です。
ちょっと寄り道して、そんなところへ目を向けられてはいかがでしょう。