信じて育んだ分は報われている

中谷英貴です。

 信じていた世界が失われると、それまで費やしてきた労力が無に帰するように感じてしまいます。

 信じていた世界とは、私の場合は子供の立場からの原家族でしたが、夫婦にとっての結婚生活であったり、サラリーマンにとっての職場だったり、大失恋や親友との別れなどもあてはまると思います。
 
 では、いったい何を信じていたかというと、その関係性、存在の継続性、あるいは安定性のようなものではないかと思います。
 それが自分の知らないきっかけを元に唐突に終わりを迎えたことを知ったとき、愕然となり、その中で培い、育んできた様々なこと - 知識だったり、技だったり、地位だったり、収入だったり、感受性だったり、希望だったり、信頼感だったり、愛着だったり - が消えていくように感じられてしまうのでしょう。

 ですが実際には、信じて没頭して夢中で生きた分は報われている、と私は思うのです。無駄なことは何もないのだ、と思えてなりません。

 会社を例にとって説明します。心を患っている方などには、会社の例は少し引いてしまうかもしれませんが、ご容赦ください。
 バブルがはじけた後の日本では、それまでのような終身雇用はなくなる、会社に忠誠を尽くしても報われない、そう言われていました。それまでのように、会社へ貢献することに重きを置いた働き方ではうまくいかない、という意味です。
 しかし、文句を垂れ流す人、ひたすらポチってばかりの人よりも、自分のできることに専念し、貢献することを念頭に働く人は、そうでない場合と比べて、完璧とはいえないまでもある程度の報酬を得ることができている、という事実に変わりはないようです。ここでいう報酬とはお金や地位だけではなく、その人の生き様の確立とか高揚感、満足感のようなものです。仮に会社が倒産の憂き目にあっても、そういう方は、受け入れてくれるところがすんなり見つかったりして、時代の波に流されずに生きていけるものです。

 少し話がそれますが、諸々の理由で、熱心に働くことがなかなか叶わない方や、どうしても不平不満が行動に先んじてしまうという方もいらっしゃると思います。
 そんな方にお伝えしたいのは、自分が見失っていた自己を受け入れ続け、一体性が増すほどに、おかしな形での自我の放出はなくなっていくということです。問題のもとになっている、苦しんでいる自分、嫌な自分、遠ざけたい自分、そういった自分を受け入れ続けていくことは、どこで何をして生きていく、働くうえでも効果があります。

 話を戻すと、原家族がなくなったとき、ひたすら荒れた時期がありました。
 信じたのに。
 ずっとあると思ってたのに。
 何もかも終わりだ。
 そこで学んだことは嘘だったのだ。
 そう感じて、自分の中に蓄積されたものが消えて、空っぽのくずのような人間になってしまったように思えたからです。

 でも、前述のとおり、自己を受け入れ続けていくうち、失った、なくした、終わったと思っていた大切な感覚が今も自分の中に息づいていることに気づくようになりました。それは、様々な時代や場所の出来事となって眠っていたもので、その頃を懸命に生きていた自分自身がずっと育み培ってきた記憶であり、それを土台とした生きる力です。それらを再認識したとき、哀しいとか寂しいという感情とは別の、報酬があったことを知ったのです。

 今を生きる何かの参考になればと思います。

 お読みいただき、ありがとうございました。