自分が救われる基準?

中谷英貴です。

 人は、生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ。
 北野たけしさんの詩にある言葉です。
 同じような言葉を、
 誰もがどこかで耳にしているのではないでしょうか。

 今生きているのだから、
 自分はたいしたものだ、と思えるならいい。

 でも、日々働いていると、
 否応なしに耳に届く批評と、
 それに反応して自分の内側で繰り返される
 反省という名の無意識の自己批判

 働くことは、日々の糧を得るためだけじゃなく、
 はたをらくにするため、
 自己実現=自分が幸せになるため、
 でもあるはず。

 …にもかかわらず、
 なぜか日々の糧を得るための働き方に
 終始している自分がいる。
 なぜか、その仕事で、
 自分の夢を実現しようとしたり、
 他者を幸せにしようとできない。
 そういうことは今の仕事では自分には無理というなら、
 仕事の内容を変えるとか、
 働き方を変えるとすればいいと思うけれど、
 そうしようとすると気力がわかない、
 というよりそもそも自分には無理、
 あるいは怖くてできない、
 そう思って竦んでしまう。

 何だかいつも
 腰砕けで、
 意味もなく心が疲れていて、
 動こうという気持ちにならない。

 表面上は、
 虚勢を張ってようと
 てきぱき動いていようと、
 成果求めて躍起になっていようと、
 体の奥底では、
 そんな自分をどうにかしたい、
 そんな自分を助けてほしい、
 そう思ってしまう。

 糧を得る以上の活動をしようとすると、
 その前提には、
 自分が十分助かっている、救われている、と
 「思い込めていること」があるように思います。

 おかしな言い方ですよね。
 思い込むのは自分なんだから、
 思い込めているなんて言われたって…。

 原家族が壊れて荒れていた頃、
 父が自死して感覚が体の内に潜ってしまっていた頃、
 仕事が手につかずに何をどうしたらいいかわからなかった頃、
 恥ずかしながら私は、
 誰か救い出してほしい、助けてほしい、
 そう切に願っていて、
 その心持ちのまま生きていました。
 ノートに線を一本引くために、
 回路の線を一本つなぐために、
 階段を一階分上るために、
 何度もため息をつき、長い時間がかかりました。

 衝突を繰り返しながら、
 取り返しのつかない一線を越えてしまった父母もまた、
 どこかで同じように、
 得体のしれない闇におびえながら、
 救いを求めていたのかなと思うときがあります。

 心理カウンセリングを受け、学び、体得し、
 今の自分に至る過去を見つめなおし、
 自分自身の受け入れが進むにつれて
 理屈抜きにわかったこと、
 それは
 自分はすでに助かっている、救われている、
 ということでした。
 世の中の表層的な情報に踊らされなければ、
 必要なものはいつもそこにあって、
 自分の心持ちによって
 人生は変化させることができると
 体にしみいるように感じもしました。 

 ああ、もうこれで、
 何かにすがったり、
 自分ができない理由を探したり、
 する必要がなくなったのだ、
 たいていのことは自分次第で何とかなる、
 そう感じた瞬間でもありました。

 お読みいただきありがとうございました。