道端の雑草に思うこと:自分を心の底から慰めよう

中谷英貴です。

 雑草。
 気に留めたことありますか?
 雑草という草はないとは、
 昭和天皇が侍従の方におっしゃられていた言葉だそうです。
 そう本来、雑草というのはなくて、
 それぞれの名前の付いた、
 あるいはまだ名前の付されていないけれども
 固有の種の草があるのだ、ということです。

 原家族が離散した後、勉強も仕事も手につかず、
 パニックというか焦燥感にかられた時期がありました。
 外側から胸をかきむしりたくなるのですが、
 心の中をかきむしることは当然ながらできなくて
 ただアップアップと酸欠状態の魚が
 最後の人あばれをしているような状態になっていました。

 夜も眠れないので、安酒を無茶苦茶にあおったりしました。
 それでも目がさえるばかりで、最後は吐いて終わり。
 本当は何かに八つ当たりしたかったのかもしれませんが
 でもその対象が見つからない。
 俺が何をやったというんだ。
 必死に生きてきたんだぞ、と、いうのは、
 まだ、変えられないものを受け入れることができず、
 最低限のことは“頑張れば”思い通りになる
 と考えていたからなのでしょう。

 その当時の自分を
 責めたり、
 批判したり、
 罵ったり
 するつもりは全くありません。

 思い出していたのは、
 当時通勤の帰り道でよく、
 道の端の方を歩いていて、
 物陰やコンクリートの隙間から
 顔を出していた雑草に見入っていたことです。

 なぜか、そんなものを見かけると
 妙にほっとしました。
 時折たちどまったり、かがみこんだりして
 じっと眺めていたこともあります。
 感情の混乱をやり過ごすことができなかった20代の若造が、
 そうやっているシーンは傍から見れば、
 ちょっと危うく見えたと思います。
 それが、その頃の私なりの感傷の浸り方だったのでしょう。

 先日、ヤマザキマリさんのエッセイ※を読んでいたら、
 こんな記載があってちょっと嬉しくなりました。
 (※『たちどまって考える』中公新書ラクレ)

 コロナ禍で日常生活が大きく変わってしまったが故に
 考えるべきことがある、という主旨で、
 政治家の在り方からイタリアと日本の国民性、
 今だから見ておきたい映画や小説のことなど、
 彼女特有の考え方を展開していました。
 「実は自分という存在は、考えているよりも
 ずっとかっこう悪く、
 恥ずかしい生き物なのかもしれません。
 それでも本来は、そんな自分と向き合い、
 付き合っていくべきなのです」
 “実は”と“かもしれません”は必要ないと思います。

 ここに続いて、次の文章がありました。
 「(イタリアでの)留学生活開始当時、
 彼女に振られた傷心の姿を鏡に映しながら
 ワインを飲んでいるナポリ出身の青年の姿を
 目撃したことがありました。
 格好悪くても、傷ついてダメダメになっても、
 自分で自分に酔って慰められるなんて、
 人間として最強だな、とそのとき深く感銘しました」
 『私たちには「たちどまる」ことが
 必要だったのかもしれない』という記載が
 本の帯の裏側に見えました。

 感傷に浸ること、おセンチになることは、
 昔からどこかで忌み嫌われる風潮があるように思います。
 確かに、多くの場合そこには、
 こんなかわいそうな被害者の私を誰か助けて、
 という雰囲気が感じられるからかもしれません。
 でも、自分で自分に酔って
 しっかり慰めることができるのなら、
 それは大切な力だと思います。

 先に述べたとおり、
 原家族が離散した折、
 私にはそれをするほどの余力も
 自分の世界に浸りきるだけの懐の深さもなかったから、
 そう感じるのかもしれません。

 そう言う意味では、
 最近はようやく厚かましいおっちゃんになれてきたかな、
 とも思います。

 お読みいただきありがとうございました。