『不遇』の奥にあるもの

中谷英貴です。

 『不遇』
 運に恵まれず、才能や人物にふさわしい地位や境遇を得ていないこと。
 時代によってふさわしい地位や境遇は変わるし、求められる才能も異なります。不遇は、ハンデとか不利などが影響していることもあるでしょう。
 
 自分を振り返って、この『不遇』を感じていた時期がありました。
 それほど御大層な人間だとは思っていませんでしたが、家族の問題があまりにつらかったからです。
 なぜこれほど親の問題、家族のことで苦しまなければならないのか。
 なぜ父はあれほど大上段に構え、妻を見下し、どうしてあそこまで陰険で残忍な態度をとれるのか。
 母はなぜ悪態をつき、世を儚むのか、自分の生い立ちの恵まれなさを嘆き、被害者でい続けるのか。
 まるで、憎む者と憎み返す者が身内として繰り返す呪詛のやり取り。
 なぜそんな彼らのこれからを私に背負わせようとするのか。
 そういったことを見聞きさせられたのが10代の多感な時期だったこともあり、何とか親元を逃げ出すことばかり考えていました。これ以上一緒にいると胸が張り裂けそうにきつかった。
 半世紀生き、同じように親のことで悩む方の話を伺い、自分の家族を振り返ると、生きづらさを抱える人の家族に典型的な家だったと思います。

 そして、家族の形が崩れ、一家が離散した後、私もまた被害者になって『不遇』を嘆いていた時期がありました。
 当時は本当につらかったし、一時、そこにとどまるのは仕方がなかったかもしれません。

 ですが、腹を立て、落ち込みながらも、不遇だと感じている自分にどこかで引け目を感じていたのも事実です。世界で一番不幸な人間であるかのように落ち込みながら、決してどん底ではないことを頭のどこかで分かっていたからです。
 大学には行けている、学費だって一部は負担してもらっている、人並みに食べていて、体だって動く。自分の才覚一つで、いくらだって人生を切り開いていけるはずなのです。

 …ほんとは親に幸せになってもらいたかったんですよね。頑張ったのは、ただそれだけ。でもそれが絶望的になってしまって、それを不遇と呼んだ…。自分のことじゃなかったんです。
 それに気づいてしまうと、体を張ってまで守ろうとしていた親の行きつく先が彼らから伝えられていた幸せとは異なる世界であることがわかってしまって、それが猛烈に哀しい。だから、彼らの代わりに、不遇、を感じ取り続けたんですよね。

 それが、心理の世界を知る中で、明確になった気持でした。
 そこを切り分けられたとき、また生きることに力が湧いてきました。
 父の死には間に合いませんでしたが、母と邂逅し、一緒に時間を過ごすこともできるようになりました。そして、まるでそんな私の成長を確認したかのように、あの世に旅立っていきました。

 『不遇』と感じるとき、その奥にある気持ちを見つめてみてください。 

 お読みいただき、ありがとうございました。