パソコンがない日に思うこと

中谷英貴です。

 アップが数日空いてしまいました。

 記事投稿、管理に使用していたパソコンが起動しなくなりました…。
 ちょうどアップが停止した日のことです。
 起動しなくなったのはビジネスユースの壊れにくさで有名なパソコン(PC、『Le…』)でした。購入からまださほどたっていなかったこともあり、まさかロバスト性(頑強さ、頑健さ)を売りにしているこのPCが壊れた?しかも、ぶつけたり動かしたりしてるときではなくて、起動したまま外に出て戻ってきたら電源が落ちていた…。しばし呆然としてしまった…。
 
 PCがないと、いつもと時間の流れが異なります。特に私はテレビをなんとなく見る習慣がなく、スマホタブレットのディープユーザーでもないので、PCがないと電子媒体から生活が切り離されます。
 PCは嗜好にして思考のツールだと思いますが、それかないことで気付くことがあります。以前、しばらくテレビがない生活を二週間ほど送ったことがありましたが、その時にも同じことを感じました。日常の生活のことです。
 それを顧みることなく、その時々の、ほんとは特にやりたいわけでもないことに時間を費やし、気が付くと一日が終わっていた、そんな経験をだれもが持っていると思います。それが満足とまではいかなくても、まあこんなもんだと思っているのであればいいのですが、中には“何か”を試す、見る、読む、アプローチする、やってみる、出かける、話してみる、といったこと“いつかやろう”と考えていたことを実施しないままだったり、何よりそれらの原動力でもある想いを見失い、忘却し、あるいはそこまでいかなくとも後回しにしてしまっていたりするものです。

 家族のつながり、恋の名残や予感、ささやかな夢、胸が躍る出来事への一歩…。
 そういった、ともすればべたで、当たり前にあると思い込んでいたり、日常に埋没させてしまいがちな、でも時に生きる原動力とさえなり得ているそんなこと。
 常にとは言いません。でも折に触れて時間を持つことではないでしょうか。

 二週間ほどテレビがない生活を送ったのは、父の自死の直後のことでした。
 スマホもPCもない空間に身を置き、冷静さとは別の静けさの中で父のことを思ううち、そこに何かの配慮が働いていたような気がしました。

 お読みいただき、ありがとうございました。