感情と体の関係

中谷英貴です。

 私大病の基準にもよりますが、入院しなければいけないような大病を患った経験が私はありません。赤子の頃に、はしかか何かで高熱が下がらず苦しんだことはあったようですが、物心ついた頃から今まで、概して健康に生きてくることができたと思います。

 ただ、入院しないまでも、調子が悪くなるといろいろな症状が出ました。
 腰を痛めたり、皮膚に帯状疱疹ができたり、膝を痛めて歩くのも困難になったり、腕が肩から上に上がらなくなったり、40度の熱を出したり、右足のくるぶしを骨折したりということはありました。特にお酒やおかしな食べ物を食べたわけでもないのに嘔吐感が出ることもありました。

 腰の痛みと帯状疱疹は何度か繰り返しました。特に腰を痛めると日常生活がいささか不自由になるので、原因を探ったものです。
 私は、ダッシュやジャンプをはさみながら定期的にジョギングします。またスクワット100回は腹筋腕立てとともに日課にしています。きっとこのやり方がいけないのだろうと当初は、体の動かし方を随分研究したものですが、それによって体の痛みに陥る頻度や度合いを減らすことはできませんでした。

 そういった一連の症状が消え、明らかに体調が良くなったのは、自分の内面を見つめなおし、虚勢を張っていたり、背伸びしたりした裏側に息をひそめていた、等身大の、自分に気づいて、それを自分の一部として受け入れるようになった頃のことでした。等身大の自分…気が小さくて、ええ恰好しいで、何かと責任転嫁して、せせこましくて、エロ爺で、どんくさくて、何かとうじうじして、すぐに行動を起こせず、文句だけは二人前の、そんな自分のことです。

 人の体は、実はまだ解明されていないことが多くて、特に何をしたわけでもないのに痛みが出てくるとき、その7割、8割は心の問題だと言われています。医療機関で「ストレスが原因」と言われて、近頃の医者はなんでもストレスのせいにする、と文句を言う方もいますが、仕事にせよ、家庭にせよ、そこにいる自分が抱えるストレスが自分の感じ方、身に着けた解釈の仕方を媒介として生じる怒りや苛立ち、不安や無力感を抑圧するうち、出口を体に向けるものなのです。

 自分を受け入れるということは、それらの感情をしっかりと認識した上で自分と相談しながら「できることをやっていこう」という姿勢で物事に臨むようになるので、寂しさや不安はあっても、怒りや焦りや苛立ちは昇華され、その時点での自らの限界を受け入れて動くので、ストレスとして抑圧されることが少なくなるわけです。
 つまり、不要な無理に気づけば力を緩めるし、同じ動作、作業、運動をするにしても、自分を痛めつけるようなところまで負荷をかけることをせず、ぎりぎりの余裕を持ちながら、ことをすすめるようになるわけです。

 父の自死からしばらくして、怒りと無力感、萎えてしまいそうな心を無視して働いた時期が続いた後、最初に書いたように腕が肩から上に上がらなくなったことがあります。飛び跳ねれば胸の筋肉が揺れるだけで痛いし、なぜか咳が止まらず、ある日、咳に血が混じったのを見て焦り、あちこちの医者を駆けずり回りました。
 どこへ行っても、曖昧な回答ばかりで原因がはっきりしませんでしたが、最後にたどり着いた国立病院の呼吸器循環器科でとてもきれいな肺のレントゲン写真を見せられながら、「これはもうストレスしか考えられない」と言われたとき、自分にもそんなことがあるのだな、と呆然としたことを覚えています。

 男らしさ、女らしさ、親らしさ、××らしさ。
 自分以外の何とからしさを自分を無視して続けていると、必ず無理がきます。それでも、らしさ、に捉われて、沸き起こっている抗議や苦痛の感情を押さえつけていると、感情ではわかってもらえない想いが、体に出ます。
 痛みか、立ち居振る舞いか、言葉か。特に、元が頑張りや家庭環境や、ともかく自分と相談せずに言動の選択を繰り返して生きてくると、その閾値は低くなります。
 
 そんなとき、一度しっかり自分自身と向き合ってみてください。
 対応の仕方はここでも書いています。
 https://nakatanihidetaka.com/category/daily-affirmation/