問題を回避する知恵

中谷英貴です。

 生きている限り不安というものはあるものです。仕事のこと、子育てのこと、将来の人生設計からつい昨日の友人の一言まで、時に思い悩んでも仕方がないことだったりもしますが、なるべく良い解がないかと苦悩したりするものです。
 それらは、自分が抱える、自分がクリアすべき課題でもあるわけで、私なども何かの問題に引っかかると、足りない脳みそをフル回転して解決の知恵を見つけようと躍起になることがあります。

 そんなある日、ふと思ったのは、自分の問題に没頭できているという、ある種の幸せについてです。
 ずっと家族、親のことで心を痛め、思い悩み、何とかしようとしているようには見えない彼らに苛立ちながら、やはり何もしてやれない自分が情けなくて、密かに涙を流した夜が何度もあって、そんなとき、学校や職場、恋人との関係などで、トラブルや問題が出て対応しなければならなくなると、回らない思考と虚ろな焦りが空回りして、解決どころか拗らせてしまったりしていました。
 その様子はまるで、ハツカネズミが回転車をひたすら回し続けるように、部屋に迷い込んできた虫が必死になって出ていこうと窓に体当たりを繰り返すように、当人は必死に何とかしようとするのだけど、動けば動くほど泥沼にはまり、身動きが取れなくなり、己の無力感に打ちひしがれるようになる、という最悪のパターンを繰り返していた時期でもありました。
 結局のところあの頃は、親のことに意識が取られるあまり、他のことに気持ちを割く余裕がないまま、何とか自分の生活を成り立たせようとしていて、周囲の人たちに、文字通り多大な迷惑をかけ続けていました。失敗するたび、おぼろに感じる親への心配は怒りに変わり、どうしてここまで子供を苦しめるのだ、自分の人生の責任は自分で取れ、と憤っていたものでした。社会人とは名ばかりの、親と自分の自他分離が十分ではなかったが故に湧き上がった情動で、こういう場で述べるのは少なからず恥ずかしいものです。
 私の件に限らず、有名なセリグマン教授の実験のように、電気ショックを受けた犬が既に逃げられるようになったにもかかわらず動こうとしなくなっていたことを、心の面でトレースしているというのは、混乱した家庭環境に育つ人に見られる特徴の一つだと思います。
 
 実際、一歩引いて俯瞰すれば、どこまでが自分ができることで、どこからが相手に預けるところであるかわかるものですが、肝心の俯瞰に必要な『余裕と自信と独立性』は、言い訳と言われることを承知で言えば、社会人、大人になったとしても若いうちから即身につくことではありません。そんな時に、自分以外の問題に取り込まれてしまうと、日々の生活を成り立たせるために文字通り四苦八苦、七転八倒するものです。
 ある種の宗教の教義などもそうかもしれませんが、心理カウンセリングはそんな状態の方に『余裕と自信と独立性』をサポートするもので、私自身はカウンセリングによってずいぶん救われました。もっとも、これは頭で理解したから、ハイOKです、となるものではなく、まさしく“体得”が必要なものであるが故に、時間がかかるものですけどね。

 この場でそういったカウンセリングもどきの話をするのも野暮なので、心にとどめておいてほしいことは、ハツカネズミが回転車を降りるように、部屋に迷い込んだ虫が開いている窓を見つけるように、問題にはどこかに解決のための『発想』『隙間』があって、それは眦を吊り上げて焦らずに一呼吸おいて、普段あまり考えない場所や時間や人や試行方法から導き出されるものです。

 釣りをやっていると、思いがけない場所で思いがけない魚が釣れることがあります。普段から釣り人の姿が見えない、へき地の、どん詰まりの、ずいぶん浅い場所で、カサゴやハタなどのちょっとした高級魚が釣れたりすることがあるんですね。そんなことを何度か経験すると、人がいないいろんな場所を探るようになって、実はそんな場所がたくさんあることがわかるようになる。何も競争して真鯛やヒラメが釣れると評判の有名な場所を人と争って確保する必要がないことがわかるんです。

そんな知恵を見つけていきましょう、という話です。