父の自死に想うこと

当たり前のことだが、肉親の自死はこたえる。
いや、こたえるなんてものではなくて、文字通り身も心も怒りと哀しみがもたらす痛みに包まれた後、それらが籠ったまま虚ろに陥り、長く無力感の闇を彷徨うようになる。あるいは内側で渦巻いた感情が外に出ないまま爆発を繰り返し、内面と遊離した自分の振る舞いに自他を嫌悪するようになる。

連絡が入ったのは、春先の冷たい雨が降る午前のことだった。家を出て10年、顔を合わさなくなって8年の歳月が過ぎていた。父は西の方にある、もともと勤めていた企業の支社で嘱託として働いていた。同僚の多くが退職金でマイホームを購入していた時代で、そうしないと生活していけない程度の蓄えだった。脛をかじって有名大学へ入り、大手外資系企業で働きだした息子が父のことを遠ざけていたこともあって、生活の援助は見込めなかったこともあった。

棺の窓を開けて、整えられた父の死に顔を見ながら、こんな顔だったよなとあらためて思い出す感じがした。通夜の場でも、葬儀の場でも涙は出なかった。それでいて、怒りと混乱が生み出す底のない闇が待ち構えている予感はあった。
今いる場所とは別の世界を歩いているような暗中模索そのままの世界だ。
当時は、倒れるという選択肢は頭に浮かぶこともなく、そこからやってくる感情を押し殺した機械のように働いて生きていたと思う。最初に書いたように、そんな生き方の中で自分を嫌悪していた時期が続いた。

父のことが胸に去来して涙を流した時、ようやくその時間が終わりを告げた。
ヘビースモーカーで母に対して理不尽に怒り、何かにつけて苛立っていた父。
私が生まれて18年の歳月、彼の稼ぎで家族は一緒に暮らした。
家を離れるとき、父に対する良い印象はなくなっていたはずだけれど、人の人生が、それも一緒に暮らした肉親の人生に対する想いは本来、そんな簡単な一言でくくれるはずもない。そこには家族それぞれが生きているが故に起こった悲喜こもごもの場面と、それらが織りなした生活が続いていて、晩年がどうだろうと、怒りや憎しみがどれほど募ろうと、死んでしまえばいい、死んでもいい、死んだほうがいい、死んでくれればいい、そんなことがあるわけがない。
寮の部屋の片隅でひっそりと自らの人生に幕を引いた父のことを思うと、彼なりに愛したはずの二人の子供からも遠ざかり孤独に逝った父のことを思うと、狭量な心が自分の不遇ばかりを嘆いて助けることができなかった申し訳なさを思うと、何よりもう二度と会って話をすることができなくなってしまった現実に、いつしか胸が張り裂けそうな哀しみで包まれ、それからしばらく泣きどおしの日々が続いた。

こんなことが書けるようになったのは、あれから長い時間が経過する中で、カウンセラーや仲間など、多くの人に助けられたからだと思う。
一人で悶々と“考えて”対処しようとしてできる類のことではない。
働き続けながらの試みだったけれど、自分のことをもう少し大切にするなら、休むなり、辞職するなりして、恢復につとめた方が、結果として自分のためにもなったような気もする。

何か問題を抱え、苦しみに包まれたのなら、その人なりのペースで自分を取り戻していけばいいのだと思う。個人としても、カウンセラーとしてもそう思う。
ただ、そのペースが早ければ、当人も早く楽になるし、もしかしたらわだかまりを抱えたまま大切な人が逝ってしまうのを止められることも、あるのかもしれないと、自分のことを振り返って考えるときもある。
なんて身勝手な考え方だろうと、自分でも辟易することがあるけれど、有限の人生の中で、必要のない闇の時間は長くない方がいい。