何者でもない自分という恵み

中谷英貴です。

原家族、特に両親の混乱に巻き込まれた子供は、自分を振り返る余裕がありません。
両親がいつも衝突していようが、借金していようが、親同士の中で閉じた問題としてくれればいいのですが、なかなかそうもいかないのが実情のようです。
相応の年齢になると、人生に生きづらさを感じ、行き詰まり、息苦しさがもたらす無力感から抑うつ的な生き方になる、その痛みに抗って世の中に反抗的に生きる、などを選択しがちです。
これは成年未成年を問わない“症状”ですが、これと並行して、あるいはこの裏側に存在する、隠れた欲求が“ひとかど”の何者かであろうとすることです。
いわゆる代理承認の欲求ですね。

大金を稼ぐ、有名になる、社会的なステータスを得る、という欲求はよくある話で、学校名や会社名、収入、医者や弁護士など(かつてほど魅力はないにしても)のステータス、一流のスポーツ選手、政治家など、考えればきりがありません。いわゆる“ひとかど”の人物ということです。それが難しかったり勘違いすると、裏稼業や夜の街の花を目指すこともある。

実際には、そこまでいかなくとも、日常生活の中で小さな“あがき”が起こっていたりもします。先に、家庭環境を理由に代理承認の欲求を求めるという話をしましたが、大小の差はあれ、実は決して特殊な背景の人にだけ起こっていることではありません。
会社での昇進や隣近所の知人の中での自分の立ち位置など、どうかすると私たちは『何者か』になろうとします。しかも喜んでそうするのではなく、仕方なくだったり、そうでないと苦しいから、と思い込んで。
根っこには、今のこの苦しみやつらさから逃れたいという切実な願いが流れているのだと思います。。

ですが、その土台となる、本来であれば家庭の中で受け入れてくれるはずだった『何者でもない』自分を、今の自分がしっかりと受け入れ、抱き留め、慈しむことができていない限り、例えどんな『何者か』になったとしても、その苦しみやつらさから逃れられることはありません。

何物でも無い自分を大切にしていますか?
この意味、ぱっと読んで感じるより、奥が深い。
当たり前はない、とはいえ、ある種の真理に近いかも。特に、自尊心をボロボロにしてる人には。
わかりますか?
周囲や世間ぬ評価軸とは別の素の自分を慈しむ習慣を体得しましょう。

詳しく知りたい方は、私のHPのブログを読んでみてください。